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小枝先生の医学史探訪(第5回)- 山脇東洋と蔵志 –

カテゴリー:スタッフブログ 更新日:2017.10.06

こんにちは、教員の小枝です。

お陰様で医学史探訪も5回目を迎えることとなりました。
正直まさかここまで続くとは思っておりませんでした(笑)

今回の主人公は、わが国の解剖学の祖といわれる山脇東洋(1705~1762)です。
いよいよ日本人の登場です!

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東洋は後藤艮山(※古方医学の開祖といわれる医師)に学んだ弟子の1人であったが、中国医学の説く人体の内部構造=五臓六腑説に疑問を抱いていた。
古方医学:治療に有用なものであればなんでも積極的に取り入れるという実証的な立場を重んじた流派。

しかし、当時は進歩的な医師の間でも「死体を切り開くなどということは無慈悲なことだ」といった考えが主流であった。東洋は艮山の勧めを受けてとりあえずカワウソの解剖を試みた。カワウソは当時「人間に内蔵が似ている」と考えられていたのだ。しかし、やはり要領を得ない…
「ダメだ、やっぱり本物の人間を解剖しないと…」彼はこうして悶々としながらも15年間解剖学の勉強を続けた。

東洋の宿願がようやくかなったのは宝暦4年(1754)のことである。ときの京都所司代、小浜藩主酒井忠用公が彼の請願に応じ、斬首刑の死体を腑分け(当時の解剖は、医師自らが死体を切ることは許されず、獣の皮を剥ぐことを業とする屠者が死体を解体するのを見るもので「観蔵」とよばれた)することを許可したのだ。
ここに本邦初の人体解剖が行われることとなった。

東洋は腑分けの立ち会いを許された同志らとともに早朝から獄舎に集まった。屠者が死体を解体しつぎつぎと内臓を取り出す。東洋は眼前に広がる光景に愕然とした。「今まで見てきた五臓六腑図と全然違うじゃないか!!」
宝暦9年(1759)、彼はこの観察記録を2冊の図志として刊行した。
これが「蔵志」である!
「蔵志」は日本人が初めて実際に人間の内臓を見て描いた解剖学書である。「蔵志」に収められた解剖図はわずか4枚の簡素なものであったが、そこには「自分の目で見た事実のみを信じよう」とする実証主義の志があふれていた。

この腑分けがきっかけとなり、その後、解剖学を志すものがあいつぐこととなったのである。
このような時代を経てやがて「解体新書」が登場することとなります。

参考文献:医学の歴史(小川鼎三 著、中公新書)、まんが医学の歴史(茨木保 著、医学書院)

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